むやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です──小説家の夏目漱石が、若い頃の芥川龍之介や久米正雄に送った励ましの手紙の一節。
漱石が晩年に書いた手紙で、新しい世代の作家に対する愛情深いエールが綴られている。その手紙の主要なメッセージが、「牛のように進め」というものだった。
ある日の手紙では、「勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせつてはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です。」とある。
また別の日には、より詳細に書いている。「牛になる事はどうしても必要です。我々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなりきれないです。僕のような老猾なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子くらいな程度のものです。あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出てきます。そうして我々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」(参考 : 夏目漱石『漱石書簡集』)。
馬のようにとにかく速く走ろうと焦ったり、火花のごとく一瞬の流行となってたちまち忘れ去られるのではなく、牛のようにゆっくりと進んでいくこと。また、誰か「相手」をこしらえて、それを押そうとしても、次々相手は出てくる。だから、相手をこしらえて競争するのではなく、自分の道を地道に歩んでいくこと。そんな長い目で見た助言が綴られている。
この助言の手紙を書いた年の暮れ、漱石は病で亡くなる。